絶望のジャンダルム
「あれが奥穂高岳ですか?」
「いや、”ジャンダルム”という嶺らしいですよ。奥穂はその向うなのでここからは見えません」
挨拶もよそに何気なく声をかけたアウトドア服の若者は気さくに答えてくれた。同じ山を登ったという一体感からか、見知らぬ同士でも気軽に声をかけ合うことに日常ほどの違和感はない。
夏の連休で登山客が群がる西穂高岳、むしろ東京の繁華街よりも人口密度は高いであろうその山頂から、北東に向かってずっと伸びる無人の尾根を僕はボンヤリと眺めていた。無数の大小の岩々が乱雑に積み上がり不揃いに連なる峰々のその先に不気味な偉容を放って立ちふさがる頂の名を聞いたのはそのときがはじめてだった。
日本の山らしからぬその聞き慣れないフレーズを何度か心のなかで唱える。
ーー響きはなにやら”ガッシャブルム”みたいだな。
見たこともないヒマラヤの難峰が思い浮かんだ。形容するにしてはかなりオーバーな例えか。しかしいずれにしろあそこは自分にとって8000m級の高峰と同じく、決して足を踏み入れることのできない絶対の異世界のように思えた。溢れんばかりの山行者が一人としてその先へ踏み入ろうとしないこともそのことを証明しているように思えた。
「さ、そろそろ行きましょうか」
S女史がこの山行前に買ったばかりの軽量ザックExosをその小さな背にフワリと担ぎ上げて言った。うつろな面持ちのまま彼女の言葉に無言で応える。僕は完全にあの山に呑まれていた。いや、山に呑まれるとはこういうことなのかとこのときはじめて知ったのだ。ジャンダルムの巨大な黒い影に向かって誘われるように進んでいく彼女の歩みを一瞥し、僕は諦めにも似た感情が湧き起こってくるのを確かに感じていた。
* * *
「どうせなら奥穂まで行きましょうか、明日もし天気がよければ。休みはもう一日とってあるんでしょう?」
予報通りに降り続く雨のせいで黒部源流雲の平への三泊四日ハイキング行を断念し、温泉宿にいったん足を止め、新穂高温泉からのロープウェーを経由して西穂山荘に宿をとろうと相談していたところでS女史が思いついたように提案した。十年以上の山行歴を持ち一人で大キレットも越えてしまうほどのベテラン山岳女子である彼女にとっては、軽いハイキングと温泉だけで今回の休みを終えてしまうことに少なからず物足りなさを感じていることが読み取れた。
本気で言っているのだろうか?と山行歴二年にも満たない僕は一瞬訝しがりながらもどうせ天候も回復する見込みもないことだし半ば冗談で言っているのだろうと条件反射的に賛意を示す。
「あぁそれいいね、前から行きたいと思っていたんです」
“山と高原地図”では一般ルートよりも難易度が高く危険な”点線ルート”として表記される西穂〜奥穂間。このルートを通過できるようになれば、あの長ったらしくて嫌らしい上高地〜横尾〜涸沢ルートを通らずに、ロープウェーで一気に標高を上げてから槍穂を目指すことができるようになる。かつてそんなことも考えたこともあったがいざ行くとなると点線ルートであることが気にかかり踏み込めずにいた僕としては、経験豊富な彼女からの不意の提案に少しは心を動かされなくもなかった。
「私は休み足りないから、そこまでは行けないね」
元山岳部だというO嬢は、西穂高の手前の独標から引き返し上高地に降りることにするという。
ーーおそらく僕らも一緒に降りることになるだろう。天候も悪いし、実際に西穂からルートを見てみないと何とも言えない。とにかく明日になってから決めればいいさ。
口には出さずともこのとき僕の気持ちはほぼ下山に向いていた。たまには観光客で溢れかえる上高地でゆっくりするのも悪くはないはずだ、そう自分に言い聞かせるように下界での残りの休みの過ごし方を夢想したりしながら、温泉宿のソファにくつろぎ、遭難事故を解説する新聞記事なんかを眺めたりして、木漏れ日に揺れるゆるやかな休息のひとときを過ごしていた。
* * *
そこはまったくの別世界だった。西穂高を出発するとすぐに四肢を使わないと進めない急峻な登り下りが続く。つかみやすそうな岩を選んで手をかけ、足場を確認し上体を押し上げる。しかし岩は思った以上に脆く簡単に崩れそうなところも多く途方に暮れる。落石の危険があることを察し先行する彼女との間隔を空ける。意気揚々と先を進む彼女の背中はすぐに見えなくなった。
西穂の喧噪を思うと夏山なのにまったくの静寂であることが不思議に思えた。一息ついて左右を見渡すと圧倒的な高度感に目がくらむ。一千メートル以上あるだろうか、はるか下界の梓川沿いに本来であれば残りの休みを過ごすはずであった上高地が見渡せる。
ーーここと比べるとまるで楽園のようだな・・・。
今さら無意味な考えを振り払い再び目の前の岩に集中する。少しでも手足を滑らせたら終しまいだ。そう考えると余計に足がすくみ無駄に疲労が蓄積してくるのが感じとれた。
最初の難所である垂壁の下り地点に到達する。鎖がかかっているが見下ろしてもどこまで降りればいいのか上からは判別できない。引き返すならここじゃないかという考えが頭をよぎるがその間に彼女は迷わず下りはじめる。言い出すタイミングを逃した僕は呆然と彼女の行く手を見守る。しばらくして途中でトラバースするルートを発見した彼女からゴーサインの声がかかる。行くしかない・・・。
鎖を握ると余計にバランスが取りにくいため結局手足を使って降りる。多少のジム遊びでボルダリングの心得はあったが下りはまったく未知の技術だ。手を滑らせたらと思うと余計に腕に力が入る。しかし足元のホールドを探すためには腕を伸ばし体を壁から離して視界を広げないとダメなことが分った。そうなると指の力でホールドを維持しなければいけない。指の力は酷使するとすぐに使い物にならなくなることを思い出した。奥穂までコースタイムでも6時間半ある。なるべく筋力をセーブしていかないととても持たないなと危機感が募る。
最初のピークである赤岩岳への登りにさしかかったところでトップを交代する。見上げると迫り来るような急峻な角度を感じるが、下を見ないで済む登りは幾分か楽な気がした。まともなホールドさえあれば早々落ちるような事態にもならなそうであることも分った。ただしそれはノーミスであればの話だ。野球のプロ選手だって一試合の守備機会のうちで一つや二つのエラーが出るのは当たり前だ。我々は安全確保の手だてをまったくといって取れていない。やはり少なくともヘルメットは必須か。懸垂下降や悪場で確保のできる装備も持ったほうがいい。今は晴れているとはいえ天候が突如崩れて強風に吹き付けられる可能性だってある。そんな後悔の念にも似た考えがぐるぐると頭の中を回り気が滅入る。
その一方で、下から続いてくる彼女の目は輝いていた。
「とっても楽しい、今、私登ってるんだなって感じがする。生きている実感が心地いい」
息を弾ませながら今この瞬間をせいいっぱい楽しんでいる彼女との互いの思惑の違いに愕然とする。こちらはまったく生きた心地がしないというのに・・・。
* * *
夕闇に落ちた西穂山荘で幕営の一夜を過ごしながらそろそろ翌日の予定を考えないといけないなとまんじりと思いを巡らす。眠い目をこすり、ドコモのSIMカードで山岳地帯でも電波の通じやすくなったiPhoneを手に取る。奥穂を目指そうという彼女の言葉が気にかかり、漠然とした不安が眠りに落ちることを妨げていた。はたして今の装備と技術で問題なく通れるルートなのだろうか?
グーグルで検索をかけると思った以上に厳しい答えが目につく。
”国内最難関の登山ルート”
”滑落による死亡事故多発”
”ヘルメット・ハーネスは必須”
”懸垂下降が必要な地点”
ーーあぁこれは僕らには無理なルートなんだ。潔く諦めるしかない。彼女には明日見たままの情報を伝えよう。それで彼女も同じ判断をしてくれるだろう。
自分の中ではすっきり答えが出た安心感でその日はすぐに眠りにつくことができた。
翌日、O嬢と独標で別れたのち、西穂山頂で聞いた彼女の答えはまったく僕の予想に反していた。
「私は行きたい。こんなにも天候に恵まれて、休みの時間も十分ある。そんなときにここにいる、こんな機会はそうは得られない」
昨晩目にしたすべての悪材料を彼女に伝えてもその判断は翻らなかった。しかし僕にはどうしてもそこには避けがたいリスクがあると思えてならなかった。あらゆるバッドシナリオを瞬時に想定する。強風、落石、滑落、いやそれだけじゃない。途中で体力が尽きてビバークするハメになるかもしれない。寝具は一人分、食糧はあるが水は十分じゃない。しかも翌日は雨の予報だ。あのジャンダルムの手前あたりまで深入りしたところで進退窮まる可能性だってある。進むに進めず、戻るに戻れない状況にならないとも限らない。
「大丈夫、行こう。問題ないわ。あなたは私が守るから」
僕の思考は彼女のその言葉で遮られた。
ーーこの場は彼女の判断に委ねてしまってもいいんじゃないだろうか。
そんな甘いささやきが脳裏を侵し、自分の意志を貫こうとする意欲が失われていくのをそのときの僕は止める術を持たなかった。
* * *
赤岩岳に到達すると、目指すべきルート上に泰然と横たわるジャンダルムの巨躯を再び見渡すことができた。まだだいぶ距離があるがかなりの威圧感を感じる。少し休んで行動食を口にしてから再び彼女にトップを譲り次のピークである間ノ岳を目指して高度を下げていく。どこまで下るのか、下れば下るほどまた登り返す距離が長くなる。西穂の時点ですでに少なからず疲労を感じていた両足の状態を案じて不安になる。
下りきったところで再び岩壁に取り付く。赤岩岳のときよりもさらに角度を感じる。彼女は手足を巧みに使って体を左右に振りうまくバランスをとりながらヒラヒラと登っていく。まるで天に帰っていく何者かのようにその足取りは楽しげで軽やかだ。
僕は考えるのを止めた。ただ淡々と手足を動かす作業に集中する。次第に恐怖感が薄れてくる気がした。人は諦めの極みに達すると余計な感情を殺すようにできているのだなと、かつて強制収容所かなにかの本を読んだときにそういう一説があったのを思い出した。
ようやく達した間ノ岳のピークから再びジャンダルムを望む。あの姿を見るたびに打ちひしがれる自分の心に鞭を打つ。
ーーもう行くしかない。引き返すにはすでにだいぶ進みすぎた。
ほどなくして奥穂側から来たであろう一団と遭遇した。屈強そうな4人の男性グループだ。全員ヘルメットをかぶりしっかりとした山岳装備に身を包んでいる。
「この先は、僕らでも進めるでしょうか?」
半ば助けを求めるように僕は問いかけた。リーダーであろうと思われる男性が、僕の低山ハイキングに最適化した軽量志向の装備に目をやりつつ一寸の間を置いて答える。
「・・・経験があれば、大丈夫です」
それだけを言い残して一団は先へと通り過ぎていった。
僕はその答えの意味するところを深く考える間もなく、自分たちでも問題がないのだというそのままの解釈に受け取った彼女に促され次のピークである天狗岳へ目を向けた。
再び急激な下りに続いて今まで以上に厳しそうな逆層の岩壁へとルートが続いていく。今にも崩れ落ちそうだ。高度もかなりある。天狗岳の肩からはあの忌まわしいジャンダルムがまるで嘲笑うかのようにこちらを覗いている。
天狗岳への取り付きのコルまで降りると捨て置かれた酒壜とペットボトルが目に入った。
ーー人もあまり通らないから、ゴミが回収されないのかな。
そんなふうに思いながらも、回収していく余力もないと判断した僕は風で飛ばされない場所に残留物をまとめてその場を後にした。
さらに進むと残置された古いザックを発見する。いつの時代のものだろうか、こんなところに置いていかなくてもいいのにと憤懣に思いながらも嫌な感覚が背筋を走った。
花が、何かを慰めるような可憐な姿を切り立つ尾根の外に向けていた。
再びトップを替わり天狗岳に取り付く。頂部から突き出た岩がオーバーハングのように見える。錯覚か、しかし直登はできまい、どこかで巻いて行くのだろうか。もはやその高度感に嘆息している暇もなく慎重に印を追ってルートを見失わないよう高度を上げて行く。
壁を登りきり、ここがピークかと思うのも束の間、さらにいくつかの登り下りの先に天狗岳が見える。気が遠くなる。
* * *
ーーどうして人の判断に流されてしまったのだろうか、今回に限って。
再び自問自答が頭の中を駆け巡る。
山に行くようになった当初はいつもソロで登っていた。一人で登ることを前提とすると経験のある誰かに頼ることはできない。情報収集からシミュレーション、装備の選択まで必然的に全てのことを自分で決めなくてはならなかった。でもそれでいいと思っていた。誰かに頼り局面での判断を委ねることで自分の責任を放棄することのほうがよっぽど危険に思われた。下調べをするなかでパーティー山行での遭難事例は嫌というほど目にした。
たとえ意を決してリスクテイクするにしても何かしらの予防線は張っていたし、そうでなくても少なくともすべての判断は自分の責任で行っていた。僕にとっては危険を冒し未知の世界に飛び込むことよりも、リスクを事前に洗い出して想定通りにコントロールできたことに達成感を覚えた。
今年の冬が空けて、誰かと一緒に山へ行くことの禁を解いた。それでも自分のわがままを貫き通した。体調や天候で気が乗らなければ離団するし、集団の和を乱そうとも自分のペースを頑に守っていた。それがどうして今回は・・・。
彼女の”経験”に頼ってしまったのだろうか。自分もやっぱりこのルートを通りたいという欲があったのは確かだ。夏山の人ごみから逃れたいという思いもあった。でもそれだけで自分の今までのスタイルを変えるほどのことだったか。自分のなかではあれだけ後ろ向きな答えが出ていたのにどうして彼女の意見を正面から拒まなかったのか。ちゃんと準備をしてまた来ればよかったんじゃないか。
そうだ僕は魅せられてしまったんだ。あのジャンダルムの偉容にではなく、多少の危険を意に介さず困難を求める彼女のアルピニストとしての純粋な眼差しに。僕はその先にある結末を知りたいと思ったんだ。
あぁこのつけはどこかで支払わなければいけなくなるかもしれない。山に大きな負い目を負ってしまった。もはや天に投じられた運命の賽の行方をただただ見守ることしかできない。
* * *
天狗岳山頂に至る。ここまで3時間のコースタイム通りに来ている。正午前。しかしお互いの口数は少なくなった。少なからず蓄積されている疲労感を口にするとそれが現実のものとして受け入れなければいけなくなるのが嫌だった。まだ行ける、いや行かなくては。いよいよあのジャンダルムだ。
そこからのルートは2909mの天狗岳から一気に下降し、3163mのジャンダルムまで登り返す、最も体力の消耗が予想される行程だった。どこまで下るのか、コルが深い。最下点からの標高差は350m以上あると推測された。目の前に徐々にその全貌が明らかになる巨大な岩壁に絶望感が募る。
道脇に供えられたと思われる飲料パックの花瓶を見て全てを了解した。いや薄々分っていたんだ。あの酒壜も、残置ザックの意味するところも。
鳥に近づいても逃げない。高所で余裕を失った我々をもはや相手にするまでもないと悟っているのだろうか。
ジャンダルムへの取り付き地点まで100m以上は降りたであろうか、岳沢ヒュッテに繋がるエスケープルートに到達する。
エスケープルートの先を確認する。しかし恐ろしい急下降だ。地図上でもやはり点線ルートになっている。下りは余計に体力を消耗するし危険だ。ここまで来たらジャンダルムを越えるしかないと判断する。
ジャンダルムを見上げる。気を失いそうな高さに絶句する。はじめて彼女が後ろ向きな言葉を吐いた。お互い疲労の色は隠せない。
これが最後の登攀だ。それだけを信じて最後の力を振り絞る。彼女は自分の疲労を否定するかのように勢い良くトップを切って行く。あんなにも空が近い。
ナイフリッジに達して彼女の顔に恐怖の色が浮かんだ。四つん這いになりながら下を見ないように慎重に進む。幸い風はない。渡りきったところで振り返りようやく落ち着いてカメラに収める。
出発してからはじめて、彼女が自からトップを替わってほしいという態度を示した。僕は無言のまま了解し先頭に進む。彼女の弱気な姿を受け入れたくなかった。
壁はさらに上空へ続いている。どこから取り付けばいいのか、しかし矢印は直登を示している。ここを、登れというのか・・・。指の疲労具合を確かめる。まだ少しは持つだろうか。
やっとジャンダルムのピークに達したか、と登りきったところで見回すと、眼前にさらに巨大な壁を見せつけられる。
言葉にならない・・・。
両足が悲鳴を上げはじめていたが、押さえつけるように力を振り絞る。グリコーゲンが枯渇してきている。普通の場所ならさして問題ではないが今ここで力尽きてはいけない。
ビバークは避けたい。明日は雨だ。シュラフも一つ。水もあとわずかしかない。
集中力を欠いたためか、ルートロストする。極端に難しい壁に誘い込まれた。逆層の岩肌に遠間隔の小さなホールドを見つけ出して慎重に登る。
後ろから来る彼女にルートの間違いを伝えようとするが、いつの間にか視界から離れてしまった。めっきりペースが遅くなっている。しばらく待ってようやく遅い足取りの彼女を確認する。
あれがジャンダルムの頂か・・・。もうすぐだ。あそこまで行けば・・・。
登りきって愕然とする。違った、ここではない。あのドーム状の嶺こそが正真正銘のジャンダルムだ。その向うに奥穂が見える。思ったよりも遠い。いや今は奥穂のことは考えるな。まずはジャンダルムだ。
最後のわずかな登りでも体が極端に重く感じられる。しかし西穂から遠くに仰ぎ見たあのジャンダルムを今こそねじ伏せるのだと思うと体中から最後の力が絞り出されるのが感じられた。
山頂に到達するとすぐに雲に覆われ視界が失われた。天候は刻々と変化してきている。全身の力が抜ける。もはや二人ともほとんどの力を使い切った。奥穂までの残りのルートはどうだろうか。一瞬の晴れ間から覗いて言葉を失う。まだ二ヶ所ほどの小ピークの登攀が残っている。しかし二人ともなかなか動き出せない。時間はすでにコースタイムを一時間ほど過ぎていた。
下降中に再びルートを見失う。程よいホールドがなく、万歳をしてぶら下がってやっとバランスの悪い足場に足がつくかどうかの難所にさしかかり、それぞれザックを脱いで下降を試みる。二度、三度、恐怖で腕が縮こまりなかなか足がつかない。彼女がいまにもすり切れそうな古い残置スリングを発見し、それを使って下降を試みる。足がついた。二人分のザックを降ろし、同じやり方で僕が後から続いてようやく先に進める状態になる。空が祝福するかのように視界が晴れ渡る。今降りた直下降ルートではなく巻き道の正しいルートが見つかり脱力しそうになる。先を急ごう。
二つの小ピークを越える。もはや後ろに続く彼女の姿を気に留める余裕もなく、目の前の奥穂が近づいてくることだけを心の頼りに重い体を前へ前へと引きずるように進めていく。
最後の登りに到達した。馬の背のナイフリッジだ。切れ渡った岩の刃の上を伝って登る最後の難関だ。どうすればいい?腕も、足も、力はほとんど入らなくなっている。天候は急展開を告げはじめ、不意の強風が気まぐれに吹き付けてくる。流れる雲が近づいてくる。いやいっそのこと視界がないほうが恐怖感がまぎれるだろうか、そんなことを考えながら漫然と取り付き始める。馬の背を越えれば、もう奥穂は目と鼻の先だ。
岩の上に座り込みしがみつきながら少しずつ体を進ませる。もはや指の力もバランス感覚もまったく頼りにできない。強風に見舞われたら全身でしがみついて耐えるしかない。振り返ると彼女はすっかり臆し不安げな表情で踏みとどまっている。
「大丈夫だ、行こう。これで最後だ」
自分自身に言い聞かせるように声をかける。彼女も覚悟を決めたのかゆっくりと馬の背の尾部に取り付きはじめた。
* * *
馬の背を渡りきった僕は全身の力が抜け、日の傾きかけた空を仰いでしばらく寝転がっていた。奥穂山頂はもうすぐ手の届きそうなところに見えていた。もう難所はない。普通に歩いていくだけでいい。もう何も怯えることはないんだ。そう思うとじわじわとうれしさがこみ上げてくる。ゆっくりと身を起こし、ふらつきながら奥穂に向かって歩き始める。
しばらく進んで気づいたように僕は後ろを振り返る。
ーーそうだ、彼女を待たなければ。
ジャンダルムが天空に浮かぶ滅びた城のように勇々しく冷厳な姿を見せている。西穂側から見たような不気味な重苦しさは今はもう感じられない。
風が止んで周りを静寂が包んだ。
「Sさーん!」
彼女を呼ぶ声はこだますることもなく虚空に吸い込まれて消えた。
・・・返事はない。まるで自分以外のあらゆる時間が止まってしまったかのような錯覚に不安を感じた僕は間を置いてもう一度叫ぶ。
「Sさーん!来てますかー?」
しばらく待っても返事はなかった。一秒が永遠の長さに感じられる。遠くに雲の流れる速さだけが時の経過を告げていた。
ーーしまった。いよいよここに来て、こんな形で山への代償を支払わされることになるのか。
最悪のシナリオが頭をよぎる。滑落か、どうする?まずは落ちた場所を確認してすぐ電話だ。電波は通じるだろう。もたもたしてると日没も近い。夜になるとヘリも飛べないかもしれない。滑落地点まで降りられるだろうか?骨折していたら鎮痛剤のロキソニンを手渡してやりたい。出血していたら?止血を試みなければ。テーピングで根元を押さえて、ガーゼか、接着剤か、いやまずは服を切り裂くためにナイフを取り出さなければ。彼女を担いで稜線まで上がれるか?40kgだとして、いや無理だ。今の疲労の状態ではとても担げない。それにもし頭を打っていたらもう動かせない。シュラフを被せて冷えないようにして、とにかく救援が来るまで待つしかない・・・。
瞬時にシミュレーションを終えた僕は、馬の背へと戻る重い一歩を進める意を決した。
・・・その刹那、馬の背の頂部に手がかかった!
「お待たせー、今行くよー」
やがてゆっくりと上体を持ち上げ、最後の登攀を終える彼女の姿が見てとれた。
ーーよかった。幸運にも、山は僕らに代償を求めなかった。
僕は彼女の無事な姿とそれを見守るかのように後ろにそびえるジャンダルムに目をくれた後、感謝の言葉を唱えるでもなく向き直り、奥穂高岳山頂に向かってゆっくりと歩きはじめた。
お し ま い
※この物語はフィクションです。 実在の人物、地名、団体名等とは一切関係ありません。
えぇ!?
ふぃふぃふぃふぃくしょん!?!?!?
えっ、ふぃくしょんんん?
仕事を忘れて一気によんだのにぃぃぃ。
そのルートにいつかは行ってみたいです。
これってロープウェーで登ってその日に奥穂高まで行ったってことですよね?
えっ! でも写真よく撮れていますよ。信じます。
西穂から奥穂は見えますよ。ジャンの右側に。
やっぱ一番怖かったのはロバの耳・・・ナイフリッジですよね。
オイラもチビリそうになりましたかから。
チビリマセンでしたか。うっふっふ。
落石から頭を守る意味でメットは必要ですね。
目の前で落されて一人血だらけになりましたもん。
これほどまでにこのコースの迫力が伝わってくる文章は読んだことがありません!
あぁ皆さま最後まで読んでしまったのですね、御愁傷様ですw
> いのうえ総帥
えぇ、女子と北アルプスに行ったのも、風雨のタープ泊も、全部妄想だったらしいですよ。鳥の人に指摘されました。
E-P1には念写機能がありましてですね、はい。
> hjさま
月曜の朝から大変申し訳ございませんでした。。。
いや、ロープウェーで上がって西穂山荘で一泊してからジャンダルム越えですね、妄想ですが。。。
> 茶柱先生
おぉ先生もジャンダルマーでしたか!しかも20kgを背負って散歩がてらに!
ヘルメット絶対必要だって何度も言ったんですよ、それなのにそれなのに・・・えぇ妄想ですがね。
まぁあれですね、NULいテント変態とか、なんちゃってULオタクとか最近よく目にしますけど、我々はジャンダルマーですからね。レベルが違いますよねウヒヒ。
でも槍穂には生涯近づくまいと心に誓ってしまいましたけどね。。。
>挨拶もよそに何気なく声をかけた
ここでフィクションと読めた俺の勝ち。
> kimatsu先生
でもね、この前の会合である方が言うんですよ。
「おれの文章力パネェ!それに比べて他のブロガーの文章はとても読めたもんじゃねー、特にいま○ぷさんとワンダはひどすぎる。地頭の違いなんだよなーやっぱ」とかって。
確か英語はできなかったはずだと思うんですけどね、いや誰とは言いませんが。
何度見てもいい景色ですね。
なつかしい光景に、コースが思い出されます。
取り憑かれたように何度も行きましたよ。
良い所です。
> toriさま
えーっと、ここは国内最難関ルートを落とした超絶クライマーのブログでしてね、幕営変態の道を突き進むNULい人は気安くコメントするのはご遠慮いただければと、まぁいいですけどね、私は心が広いですから。
> さんぽさま
おぉ、ジャンダルマーここにも!
やはり散歩がてらに・・・
まぁ分ってますよ、やまやさんにとってはたいしたコースじゃないってことぐらいはですね。
あたしゃ死ぬかと思いましたけどね。。。
あら僕も土曜にちょいとジャンダルムに行ってきましたよ。
ええ、京橋にある都岳連経営のお店ですけどね。あのモンチュラとマックパックの
在庫が豊富な。
> roadmanさま
あぁぼくも京橋でギアと戯れてるほうが素敵です。
モンチュラと聞いてこれはただではおれません、行かねば!
でも都岳連って・・・怖いやまやのおっちゃんとか、いない・・・?
あーやっちゃましたか〜〜 想像以上にキツそうですね。
おかげさまで来月チャレンジする勇気がなくなりつつあります。素晴らしい想像力!!
> hanterさま
ぬお、行きますか!?しかも自分の意志で!?チャレンジャーですねー。
いやー実はですね、天狗の周辺にすごいよさげな幕営好適地があるんですよ。岩が整地されてたからビバーク地点なんでしょうね。
ペグダウンは難しそうですから、ワンショットかライトハウスで。2日の行程に分ければ体力的にも安心ですし。
あそこでひとり、星空を見上げながらコーヒーを飲んで過ごす、なんて素敵だなーとか。
寝ぼけてトイレに出て行って落っこちるリスクはありますけどね。ペットボトルトイレがあれば安心かも。
おぉぉぉぉ….
アナタの文章力にやられちまいましたよぉ。
blog読んでこんなに緊張&興奮したの初めてかも。こんちくしょう。
> 64さま
あぁまたここにも犠牲者が・・・お仕事に影響がございませんように。
えぇ点の記ブームにあやかって映画化決定らしいですよ。
で、待望のファミリーテントのレビューはまだですかー?
どこまでも読んじゃいました(><)
さぞかし大変だったのだろうと涙ウルウルだったのに・・・
フィクションは嘘ですね!
きっと爪を出しすぎて照れているのですね(^^)証拠写真も有る事だし。
Wさまの力とくと見せて頂きました(*^_^*)
> ももさん
おぉぉ、最後まで読んでしまいましたか!
えぇ「妄想のジャンダルム」というタイトルにしようかどうか悩んだんですけどねw
こんなところをぶうらぶらと三味線弾きながら闊歩してしまう人もいるらしいですよ、信じられません><
おおお。ジャン!
西穂の先まで行かれてジャンを!とは、
「ぐおおおお!」と驚きましたです。
迫力臨場感にあわせて詩情タプーリ、最高であります。
高所恐怖症の僕にはケツがむずむず、たまりません。
あんなおっかないところには近づかない方が良いと
かねてから思っていましたが、拝読いたしまして
絶対に近寄らないと心に決めました。
どうもごちそうさまであります。
初めまして。
シャンダルム越えを完走され、先ずはおめでとうごさざいます。
それにコースは最難関ルートを選択なされましたね。私も以前
このコースルートで迷いました。結局西穂に下る易しい方を選択
しました。貴方は謙そんして表現しておられますが、ベテラン者
と思われます。奥穂高からどうされましたか。ジャンダルの裏顔
はアバタの様相でしたね。しかし私も忘れるこが出来ない思い出
となりました。又北鎌はまだですか。そのうち発表して下さい。
> たんざわらんぽさま
いやー、天候もよくコンディションに恵まれましたね。そこまでの有名コースだとは知りませんでしたよ。奥穂からはおとなしく涸沢方面に下りました。
北鎌というと、あれですね、加藤文太郎が死んだという…そういう事前情報があれば決して近づかないんですがね(笑
しかしなんとディープなサイト! 世の中まだまだ奥が深いものがあるんですねぇ。
私も2008年の夏にジャンダルムに登ってきました
山好きな人間でしたら一度は挑戦したい山ですよね
私は上高地から入って横尾経由で北穂高に泊まって、2日目に北穂高から西穂高山荘まで歩きました
ここの縦走は歩き甲斐がありますよね(12時間かかりました)
3日目は西穂高山荘から焼岳に登って上高地に戻りました
天候に恵まれた3日間でしたので思い出も沢山あります
でも60歳(当時)の私にはきついコースでした
> 吉田様
本当に時間かかりますよね。。僕もヘトヘトでした。でも天候に恵まれると最高!!
このルートを西穂側から往かれたのは凄いです。私は奥穂から縦走しましたが、逆層のスラブではブレーキがかかり、同行者に迷惑をかけました。フィクションとありますが、写真にしろ、私にはノンフィクションに思えます。3回挑戦して、1回は私の体調で、1回は天候のため断念しました。すでに、縦走してから20年以上経ちますが、もう1度トライしてみたい衝動にかられます。体力も気力も堕ちた40代後半の私には無理と分かっていますが・・・。何れにしてもこのルートの緊迫感が伝わってくる文章でした。引き込まれました。お見事。
夢中で読ませていただきました。
先日西穂高に初挑戦でその向こうのジャンダルム、気高い奥穂高の難しさ実感です。
北鎌尾根編や何でも読んでみたいです・・・